二日目:民法制定の歴史


1 日本民法の歴史
 法学入門において,日本の法律は明治時代に歴史が始まるというお話をしました。民法も,やはり明治時代に制定されています。
 実は民法の制定については,けっこう面白いドラマがあります。今回は半分余談のようになりますが紹介しておきます。日本の近代化に関連するエピソードです。

2 江藤新平による近代法制度の導入
 明治維新の後,一刻も早く近代国家の仲間入りをしたかった明治政府は,民法の制定を急ぎます。司法卿だった江藤新平は,箕作麟祥という学者に対し,当時世界の最先端という評判だったフランス民法の翻訳を命じました。このとき,「誤訳も妨げず,唯速訳せよ」と命じたのは有名な話だそうです。穂積陳重『法窓夜話』に出てくるエピソードです。
 誤訳でもいいというのは何とも無茶な話です。また,フランス民法を翻訳してそのまま日本民法にしようというのも,日本とフランスはまったく風俗習慣異なるのにうまくいくんかいなという感じがします。
 しかし,江藤新平は,たしかに日本とフランスとでは風俗習慣が違う,しかしたとえ風俗習慣が違えども,日本に民法がないよりはあったほうがよいではないか,ということでフランス民法をそのまま日本民法として導入しようとしました。いやあ,剛腕ですね。

3 箕作麟祥による民法翻訳
 箕作麟祥は別にフランス法の専門家というわけではなく単にフランス留学経験がありフランス語が読めるというだけで白羽の矢が立ったようです。
 当然,初めてみるフランス語の法律専門用語に難渋しました。また,それまでの日本にはまったくない概念ばかりですので,翻訳には大変苦労したようです。なにせ当時は,民衆に権利があるなんて想像すらできない時代でしたから,日本には「権利」という言葉さえありませんでした。
 箕作麟祥はあまりに苦しいので,留学して法学を学んでくると申し出ましたが,「唯速訳せよと言うてるやないか」とばかりに却下されてしまいました。仕方なく,苦労に苦労を重ねながらも翻訳を続けます。5年かかって全訳したそうです。最終的に,箕作麟祥は法学者として名を残すこととなります。

4 江藤新平の失脚
 その後,日本史でご存知のように,征韓論で江藤新平は下野し,さらには佐賀の乱を起こして処刑されてしまいます。
 ちなみに江藤新平は司馬遼太郎『歳月』の主人公ですね。『歳月』は法学の入門書にあげられているのを見たことがあります。あまり法学入門にはならない気もしますけど,教養として読んでおくのもいいと思います。
 江藤新平の失脚が影響したのか,翻訳したフランス民法を使うのではなく,やっぱり日本で独自の民法を作ろうということになりました。必死になって翻訳した箕作麟祥はさぞがっかりしたかもしたことでしょう。ですが,その苦労がまったくの無駄になってしまったわけではなく,翻訳の様々な成果が後世に非常に役立ったということです。

5 ボワソナードの招聘
 しかし,日本で独自の民法を作ると言っても,日本にはまだまだ近代法を立法できる者などいませんでした。優秀な若者はどんどん西欧に留学させていたのですが,彼らが一人前になるのはまだまだ先のことでした。
 そこで,外国の一流の学者を日本に招こうということになり,フランスからボワソナードという学者にはるばる日本まで来てもらったのでした。ボワソナードは法学入門にも登場しましたよね。

6 ボワソナードによる民法案作成
 招かれたボワソナードは大学で日本人学生に法学を教授しつつ,日本のために民法案を作ります。この民法案が明治23年(1890年)には公布されます。
 公布までされたのですから,あとは施行されるだけでした。
 ところが,この段階になって突然,民法案に対する猛反対が巻き起こります。フランス流の考え方が日本に合わないとかなんとか言い出す人々があらわれたのです。

7 法典論争
 このころになると,西欧で法学を学んで日本に帰ってきた留学生が増えていました。
 フランス留学帰りにとっては,ボワソナードの作った民法案は大賛成です。フランス人のボワソナードが作った民法案にはフランス法の考え方が大いに影響しているわけで,そういう民法が施行されれば,フランス留学帰りは大きな顔をしてものが言えるわけです。
 ところが,当時は,かつて最先端という評判だったフランスのナポレオン法典よりも,さらに最先端と言われるドイツ法典が完成していました。今となってはドイツ法の考え方を導入したほうがいいんじゃないかという意見には一理ありました。
 そして,フランス以外の留学帰りにとっては,自身が大きな顔をするためには是非ともボワソナードの民法案はつぶしたいところです。自分の出世がからんでいますのでほとんど命がけです。フランス派(断行派)とドイツ派(延期派)との激しい論争になりました。これを「法典論争」と言います。

8 無期限延期
 最終的に,ドイツ派から「民法出でて忠孝亡ぶ」なんてスローガンが飛び出したことが大きな効果があり,ボワソナードの民法案は無期限延期となってしまいます。法典論争はドイツ派の勝利に終わったのです。遠く極東の日本まで来て民法案を作ってくれたボワソナードにはまことに申し訳ない限りです。
 しかし,ボワソナードはたしかに民法案を作りましたが,作ったのは財産法の部分だけでした。家族法を作ったのは日本人でした。そうすると,「忠孝」が大きく影響する家族法の部分には,フランス法の影響はさほどなかったんじゃないかとも思います。
 法典論争は,どちらのほうがより優れた法典なのかという理論的な論争ではなく,やはり出世が絡んだ政治的な戦いだったのでしょうか。

9 富井政章,穂積陳重,梅謙次郎による民法案作成
 民法起草委員として,あらためて,富井政章,穂積陳重,そして梅謙次郎という3人が任命され,日本人の手で民法を作ることになりました。このとき,ドイツ民法が模範となりました。
 ただ,3人はゼロから民法を作ったわけではなく,ボワソナードの民法案も大いに参考にしたようです。その結果,民法にはフランス法の影響が強く残っていると言われています。
 なお,家族法の部分は,ボワソナードの民法案がほとんど変わらず採用されているということです。あれっ,「忠孝滅ぶ」は・・・?

10 民法制定
 3人が作った民法案は帝国議会での審議を経て,明治31年(1898年),ついに民法は施行されました。これが現在の日本民法です。
 ちなみにボワソナードが作り施行されることなく終わった民法案は,「旧民法」と呼ばれています。このあたりのことを詳しく知りたい方は,大久保泰甫『ボワソナアド 日本近代法の父』や,青木人志『「大岡裁き」の法意識 西洋法と日本人』を読んでみるとよいでしょう。いずれも新書ですので読みやすいです。

11 民法のその後
 民法は,戦後になって,家族法の部分は全面改正されました。
 他方で,財産法は明治時代から戦後もそのまま改正されずずっと続きました。細かい条文の改正はありましたが,全面的に改正されることはなかったのです。明治時代の法律が現在も生きているということは,法学入門でもお話しましたけど驚きですよね。

12 現代語化されて読みやすくなった
 ただ,明治時代に作られたせいで,民法の条文はたとえば「満二十年ヲ以テ成年トス」というような文語体のカタカナ文で書いてありました。現代人としては慣れるまで読むのが大変でした。平成16年(2004年)にようやく現代語化され,おかげで「年齢二十歳をもって,成年とする」というように読みやすくなりました。しかし,平成16年までは,現代っ子の学生もがんばってカタカナ文を読んでいたんですね。

13 債権法改正でけっこう変わった
 さらに,平成29年(2017年)に「債権法改正」ということで,財産法は大きく改正されました。改正されたためにこの法学道場民法入門も書き直さないといけなくなって,その意味ではちょっとだけ迷惑ではあります。

余談:民法の淵源はローマ法
 日本の民法は,このように近代民法であるフランス民法やドイツ民法の影響の下に作られたわけですが,フランス民法やドイツ民法は,はるか昔のローマ法の影響を受けています。財産取引に関するルールはある程度汎用性があり,ローマ時代のルールが現在でもけっこう使えるところがある,ということのようです。
 そうすると,日本の民法の淵源はローマ法であるということになります。知らないうちに,わたしたちはローマの制度の下で暮らしていたんですね。
 このような沿革があるため,昔は大学の法学部でローマ法を学ぶのがセオリーでした。現在でも,まだローマ法の講義が残っているところがあるかもしれません。さすがに,現代において,遠い昔のローマ法を学ぶ必要はあまりないと思いますけど。

余談:ローマ法の発展
 ローマ帝国の全盛期は,商業がすさまじく発展しました。
 そして,塩野七生の『ローマ人の物語』にあるように,ローマ人は大変に実際的な民族でした。そのため,ギリシア人が法の哲学とか理念とかに関心を持ったのに対し,ローマ人はむしろ現実の取引において生ずる紛争をどう解決するかという,現実的なところに関心を持ちました。そのため,ローマ法が発展したというわけです。

余談:ローマ法における学説
 「ローマ法」という一つの法典があるわけではなく,十二表法や民会・皇帝が制定した法,そして法学者の書いた注釈等で「ローマ法」が構成されています。法学者の書いた注釈までローマ法になるせいで,ローマ法が何なのかがはっきりしないところもあります。ピーター・スタインの『ローマ法とヨーロッパ』には「まさにローマ法が何であるかを確定することが,しばしば相当な仕事になった」とあります。
 権威ある法律家の注釈は80巻以上にも及び,ローマ法に精通して何がローマ法かを確定するには途方もない苦労が必要だったことでしょう。
 最終的に,ユスティニアヌス帝が『ユスティニアヌス法典』を制定してローマ法を整理することとなります。

余談:ローマ法における学者の権威
 紛争が起きるたびに権威ある法学者の意見を採用するという形で,ローマ法が発展していったようです。法学者の意見がそのまま法になるわけですから,法学者の権威はとても高かったようです。現在でも法学者が偉いとされていますけど,そういう歴史があるからかもしれません。

14 まとめ
 今回は,どのような過程で日本の民法は成立したのかについてお話ししました。
 次回は,民法の基本構造,ないし民法における世界のとらえ方についてお話しします。これがわらかないと,細かいことをいくら学習しても身につきません。民法の幹の部分になります。お楽しみに。